僕は孤児院に預けられてからというもの、新しい生活に戸惑ってばかりだった。

寝床は硬い上に他人との雑魚寝だったし、使用人もいなければ食事の質だってまるきり違う。
自分が今までおかれていたのが恵まれた環境で、外に出ればこれが普通なのだと理解はしたが、体は上手く納得出来ていなかった。
そんな生活に上手く馴染めない僕にとって、アトワイトの手助けは何よりありがたかった。

お父さんが仕事でいない間だけアトワイトはこの孤児院に来る事になっていて、一年近くいる事もあれば、半年も訪れない事もあった。
アトワイトが孤児院にいない時、僕は不安で不安で仕方がなくなって、胃の下のあたりがシクシクと痛むのだった。
しかし、アトワイトは此処に来る必要が無い時でも必ず週に一度は訪れてくれたので、僕はその日を心待ちにしながらいつも夜を明かしていた。





「アトワイト!」
「シャル、元気にしてたか?」

アトワイトが孤児院に来る日は、僕は決まって門の所で彼女を待っていた。
敷地の外からやって来る彼女の姿に、此処から出る事が出来ない僕はいつも嗅ぎ慣れない外の匂いを感じていた。

「元気だったよ。」
「そうか、でも少し痩せたんじゃないか?」

食生活が変わった所為かな、と言いながら、僕を抱き上げて建物へと連れて行く彼女は僕の目に逞しく映った。
アトワイトが来たのを知ると、他の子供達も彼女の周りに現れてかわるがわるに構ってとコールを出すのだった。
彼女は仕方がないね、と笑って僕を下ろすと交代でその子供達を抱えあげるのだ。
僕にはそれが不満で仕方がなかった。
アトワイトにとって、僕だけが特別な訳ではないと思い知らされるようだったから。

この孤児院において、アトワイトは割と中心的な存在だった。
此処にはせいぜい十五歳以下の子供しかいなかったし、その中で最も強いのは弱冠九歳のアトワイトだったからだ。
子供達の社会にもヒエラルキーは存在する。
このご時勢、この状況下において、腕力というものは権力を維持する為には最も適したものだったし、彼女は知力の面でも郡を抜いていた。
そして、この閉じられた孤児院ではなく外からやってくる人間、という事が彼女をより特別たらしめたのだろう。

「あら、アトワイトいらっしゃい。」
「こんにちは、院長先生。」

孤児院の院長がアトワイトを出迎えた。
院長に挨拶する為に、アトワイトはその腕に抱えていた女の子をそっと下ろした。
アトワイトの上着の裾に掴まりながら、そんな小さな事に安堵を覚える自分はなんと卑屈なのだろうと、胸の奥がじりじりと焦げる様な気持ちになった。
そっとアトワイトの服から手を離すと胸が焦げる様な気持ちは少しだけ楽になったが、代わりになんともいえない寂寥が僕の胸をしとしとと濡らした。

「どうかしたのか、シャル?」
「な、何でもないよ。」

服の裾から僕の手が離れた事に気がついたのだろう。
アトワイトが僕の頭にそっと手を置いて尋ねた。
僕は、ぷるぷると首を振って、代わりに頭上のアトワイトの手を握った。

「変なシャル。」

アトワイトは気にした様子も無くそのまま進んでいった。
彼女の掌から何か暖かなものが僕の方へと流れ込んでいる気がした。
そしてそれは胸の辺りに静かに溜まっていって、僕の中の焦げ付いた気持ちや冷たい感情を溶かしていくように思えた。





アトワイトと過ごす時間はあっと言う間に過ぎていった。
それは勿論、僕が相対的にそう感じている所為もあるけれど、アトワイトが他の子供達の世話もしている事が原因だった。
僕は常にアトワイトの隣にいたが、アトワイトの隣には他にも大勢の子供達がいるのだ。
そして大勢の中の一人に過ぎないという事実が、また僕の胸をしとしとと濡らすのだった。
夕暮れには帰ってしまうアトワイトを、門の所まで見送るのが常だった。
オレンジの光に包まれてだんだんと遠ざかっていく彼女。
その足が進むにつれ、黒く、見えなくなっていく。
アトワイトの姿が本当に見えなくなってしまった所で、僕はいつも部屋に戻るのだ。





夜は嫌いだった。
夜には全てを隠してくれる優しさがあると、何かの本で読んだ事があったけれど、僕はそうは思わなかった。
じっとしていると自分の輪郭が消えて、夜と一体になってしまいそうな所が嫌いだった。
汚い自分の心が溶け出して、夜の空気と一緒になってしまうのではないかといつも不安だった。

「アトワイト……。」

今日もまたアトワイトに縋ってしまった。
自戒の念がじわりと頭を擡げる。
アトワイトは縋りつかれる事を嫌う節がある。
彼女自身はうまく取り繕って隠している様だったが、僕には何となく分かってしまった。
多分、彼女と僕が少し似ている所為だと思う。

「どうしよう、嫌われてたら……。」

毎回毎回、彼女が帰った後の僕は、布団の中で一人膝を抱えて泣いていた。
もう、彼女は愛想を尽かしてしまって、此処には来ないかもしれない。
真夜中まで膝を滴で濡らして、明け方には眠たい目を擦って起きる。
そしてアトワイトのいない、長い長い一週間に溜め息を零すのだった。





ずっと僕は、アトワイトの中の自分の価値について考えていた。
僕にとって特別な、アトワイトの特別になりたくて。
でも、いつも上手くいかずにもどかしさから癇癪を起こしそうになって。
そんな事をしたらますます嫌われれるからと必死で我慢して。
それの繰り返し。

そんな僕に転機が訪れるのは暫く先の事だった。

夜中にトイレに降りた僕は孤児院のシスターが何か話しているのに気がついて扉の前にそっと忍び寄った。
聞き違いかもしれないが、一瞬、僕の名前が聞こえたような気がしたから。
この頃の僕は、人が自分に示す評価について過敏になっていた。
自分が一体どんな風に思われているのか知りたくて、耳をそっと忍ばせて小さく聞こえてくる会話を拾った。

「それにしても。アトワイト、最近よく来るようになったわね。」
「ええ、本当にね。以前は中々寄り付こうともしなかったのに。」

アトワイトが?
あんなにまめに様子を見に来てくれるのに、と僕は不思議に思って更に耳を欹てた。

「それもこれも、ピエールが来てからじゃない。」
「ああ、あの子はアトワイトのお気に入りだものね。」

僕、が……?

子供達の世話を焼いてくれるから助かるけれど、という言葉は最早聞こえていなかった。
心臓がどくどく鳴って、耳で血管がうるさいくらいに主張する。
僕はバレない内にと慌てて布団に戻った。

「アトワイトの、お気に入り……。」

声に出して、小さく呟いてみる。
本当に。
本当にそうなのだろうか。
聞き違いではないだろうか。
もしくは他の話と勘違いをしているのではないだろうか。
そんな事を考えてみたけれど、どうにも間違いだとは思えなかった。

以前は来なかったというアトワイト。
シャルティエが来てから、週に一度尋ねてくれるようになったアトワイト。

嘘。
嘘じゃない。

相反する気持ちが心の中で綯い交ぜになる。
これが事実で無かった時どんなにショックを受けるかと考えて、これは嘘だと思い込もうとする自分と。
自分にとってのアトワイトがそうであるように、アトワイトにとっての自分もまた特別なのだと信じたい自分と。
いつもなら、前者が勝つ。
でも。
でも、その時はただただ嬉しくて。

「僕が、アトワイトのお気に入り……。」

顔が赤くなる。
全身がむずむずとむず痒い。

どうしよう。
どうしよう。

嬉しい!

「ホントかなぁ……。ホントなのかな……。」

今度、アトワイトが来たら勇気を出して聞いてみよう。
ずっとずっと聞きたかった事を、聞いてみよう。
そう決心して、その日、僕は今までに無いくらい穏やかな眠りについた。





揺さぶられる声と、強い光に顔を顰める。
もう少し寝ていたいのに。

「シャル……!」

名前を、呼ばれている……?
ゆっくりと目を開くとアトワイトの姿があった。

「あ、とわいと……?」
「シャル!」

焦ったような顔。
ああ、こんな顔久しぶりに見たなあ。
思わず笑いが込み上げそうになった。
でも、笑ったらきっと怒るんだろうな。

「ねえ、アトワイト……。」

ああ、そうだ。
アトワイトに会ったら、聞きたい事があったんじゃないか。
危うく忘れる所だった。

「アトワイトにとって……僕は、特別?」

返事を聞くのが少し怖い。
でも、聞こうと決めたんじゃないか。

「当たり前じゃない! バカ!」

アトワイトに睨まれて少し萎縮してしまう。
でも、その答えが嬉しくて、思わず笑いが零れてしまった。

「貴方は弟なんだから、大切じゃないわけがないでしょう!」
「アトワイト……。」
「同じ事を何度聞くのよ、貴方は!」

…………ん?
その言葉に違和感を覚えて立ち上がろうとしたが、上手く体が動かない。

「全く、ディムロスの所為ですからね!」
「すまない……。」

ディムロス……って、中将?
そこで漸く気がついた。
ここは孤児院じゃない、医務室だ。

「気分はどうだ、シャルティエ。」
「もう、平気です……。」

答えながら記憶を手繰る。
そうだ。
僕はソーディアン・チームに選ばれて、ディムロス中将に剣の手解きを受けていたんだった。

「平気なんてよく言えたわね。貴方、ずっと『アトワイトにとって僕は特別?』って、ずーっとうわ言繰り返してたのよ!?」
「うっ、嘘っ!!」
「嘘なもんですか。ディムロスが証人よ。」

慌ててベッドから起き上がるとディムロス中将の方を見遣る。

「あ、ああ……。」

中将は言い難そうに視線を逸らして頷いた。
羞恥に顔が赤くなるのが自分でも分かった。
きっと傍から見たらまっかっかだろう。
ああ、恥ずかしい。

「もう、今日はここで寝ているといい。私は職務に戻る。」
「はい。」
「…………すまなかったな。」
「いえ。」

この人のこういう不器用な優しさが僕は好きだ。
いつもならアトワイトが中将を呼び捨てる事に忠告するのに、恐らくは動揺のせいでそこまで気が回らないのだろう。
生真面目なだけの軍人に徹し切れていない、こういう所がとても好きだ。

「中将、ありがとうございました。」

そういうと不思議そうな、驚いたような顔でこちらを見て、そしてそのまま医務室を出て行ってしまった。
アトワイトと二人残されて、少し気まずくなる。

「全く……貴方って人は。」
「あ、アレは昔の夢を見てただけで……。」

アトワイトの溜め息に思わず言い訳が口を突いて出た。
アトワイトは半眼でこちらを睨んで、それだけで僕を黙らせた。

「弟は……シャル、貴方だけよ。」
「…………うん。」

小さく頷くと、アトワイトはにこりと笑って僕をベッドに横たえた。

「もう寝てなさい。」
「うん。」

何とか起き上がれる程度には回復していたけれど、体の中心の辺りがヒヤリとしてやはり何処か気持ちが悪かったので僕はそのままその言葉に従う事にした。
元気になったらアトワイトに殴られるんだろうなあと思いながら、僕の意識はウトウトと沈んでいくのだった。










シャルティエ視点のお話でした

アトワイトは怪我人でも平気で殴ります
勿論怪我してない所だけど

病人は治ってから殴ります
「軍人の癖に自分の体調くらい管理できなくてどうしますか!!!」って言って殴ります

勿論手加減はしてる筈だけど結構痛いのでシャルティエはあまり医務室に来たくありません