「どうしたんだい、ディムロス?」

珍しく、酷く落ち込んだ風なディムロスに思わず声を掛けた。
これが傍から見たら何ともない様に見えるのだから、この男は性質が悪いと思う。
人の感情の機微には聡い方だと自負する私ですら、偶に見分けるのが困難だ。

「ハロルドが…………。」

それだけ呟くと、ディムロスは俯いて黙り込んでしまった。
どうやら相当に重症らしい。
一体どうした事だろうか。

ディムロスが、全くこちらの様子に気付かないので、私はそっと部屋から抜け出すと、珈琲を淹れに行った。

「ハロルドが……何だろう?」

まさか、ディムロスに手を出した訳ではあるまいと、下世話な考えを廻らせる。
あの弟はあちらこちらとフラフラしている割に、こちらが見ていて面白いくらいディムロスに対しては初心な反応を見せる。
そんなハロルドがディムロスに手を出したとは考えられないし、だとしたらディムロスの反応に少々食い違いが見えてくる。
だとすると一体何なのか。

「ハロルドから攻める方が得策だな、これは。」

いらぬ事に首を突っ込む癖を直せとハロルドに言われそうな気がしたが、それは一先ずおいて、ハロルドの分のカップに珈琲を淹れる。
自分の分もトレイに載せて、そのままハロルドのラボへと向かった。





コンコンコン。

ノックをして部屋の扉を開ける。

「ハロルド、いないのかい?」

奥の研究室の方だろうか。
資料室側の机の上にトレイをそっと置いて、研究室の扉をノックした。

暫く置いて、ハロルドが出てくる。

「…………なんだ、兄貴か。」
「なんだとは随分な言い草だね、ハロルド。」

しかし、これはどうした事だろうか。
ハロルドまでもが落ち込んでいる。

「折角、珈琲を淹れてきてあげたのに。」

途端、ハロルドが嫌そうな顔をする。

「大丈夫、インスタントだよ。」
「……そうか、よかった。」

あからさまに安心したハロルドにカップを手渡して、そのまま椅子に座る。

「お湯に珈琲豆浮かべる奴、オレ初めて見たもんなあ……。」
「全くだよ、珈琲ってああやって淹れるんじゃないんだね。」

驚いたよ、と私が言うとハロルドは苦々しげに、つっこむ所はそこじゃねえよと言った。
いや、実際に苦かったのかもしれない。
珈琲が。

カップに口をつける度に顔を顰めるハロルドに、私はこの珈琲は飲まないでおこうと決めて、徐に話を切り出した。

「で?」
「で……って何よ?」
「いや、ディムロスと何があったのかなー……って思ってね。」

咳き込むハロルドに微笑んで、話の続きを促す。

「で、何があったんだい?」
「何がじゃねーよ! ああ、もう……珈琲のシミが……!」

白衣についた珈琲のシミをハロルドが慌てて拭った。
しかし、それで拭いきれる訳もなく、ハロルドは諦めたように深く溜め息を吐くと白衣を脱いで椅子に掛けた。

「ホント、関係無い事に首突っ込むの止めろよな。兄貴……。」

予想通りの言葉が降ってきて、少し苦笑いが零れた。

「まあまあ、ディムロスが落ち込んでるみたいだからさ。仕事が捗らなくなるのも困るし。」
「嘘付け。興味本位の癖に……。」
「あれ、バレバレだなあ……。」

至極、最もらしいことを並べ立てるも、あっさりと一蹴されてしまう。
まあ隠すつもりも毛頭ないのだけれども。

「…………ディムロスが、研究室に。」

じっと見つめ続けると、ハロルドは視線を逸らして小さくそう呟いた。

「ははあ、なるほどね。」

それだけで納得がいくのは、別段、私達が双子だから、などという理由ではない。
大体、誰もが一度は同じミスをするからだ。





ハロルドの所に書類を届けに行かねばならなくなった。
ハロルドにも執務室がある事にはあるのだが、どうせそんな所には居まい。
恐らくはラボに篭って、何かしら実験をしているのだろう。

コンコンコン。

ラボの扉をノックして、声を掛ける。

「ディムロス=ティンバー、OF8、書類を届けに上がった。」

…………返事がない。
扉を開けて、資料室を見回す。

「ハロルド中佐?」

ここに居ないという事は、ひょっとして奥の研究室の方だろうか。
まさかアイツが執務室に居る訳があるまい。

ノックして、扉を開ける。

「ハロルド中……。」
「入るな!!!」

突然の怒声に思わず身を竦ませる。

「……研究室に入るなら、髪を縛って、靴を履き替えて、手を洗って、白衣を着ろ。」

静かに、淡々と告げるハロルドに目を瞬かせる。
こんなハロルドは初めて見た。

「もしくは、そっちで待ってろ。ここ片付けたら行くから。」
「…………こちらで待たせて貰おう。」
「分かった。」

資料室の椅子に腰掛けて、目を瞑った。
ハロルドが怒るのは当たり前だ。
誰にも、領域というものはある。
そこに土足で踏み入られそうになれば、誰だって怒るに決まっている。
それに、向こうは研究室で、薬品類が辺りに付着していてもおかしくないのだ。
ハロルドの対応は、研究者としては当たり前のものだ。

何も考えずに、そこへ入ろうとした自分を恥じた。

「…………待たせたな。」
「……ああ、いや、大丈夫だ。」

暫くして、扉の向こうからハロルドが現れた。
椅子から立ち上がって、少しだけ歩み寄る。
自分の動作がぎこちないような気がした。

「で、どうしたんだよ?」
「あ、ああ……書類を持ってきたんだ。」

ハロルドが受け取って、書類を確認する。
俯く視線は、私からは見えない。
恐らくは書類の上を滑っているのだろう。

「あ、その……怒鳴って、悪かった……。」

ハロルドが、小さく呟いた。

「いや、私が許可を得ずに研究室に足を踏み入れようとしたのが悪いのだ。……すまなかった。」
「いや…………。」

沈黙が降りる。
唾液を嚥下するのにさえ気を遣うような、そんな静寂。

「……では、これで失礼する。」
「ありがとうございました、ディムロス中将。」

形式的な挨拶だけを何とか交わして、私は逃げるようにその場を立ち去った。





「怒鳴った?」

ハロルドの頬を人差し指で突いて、尋ねる。

「何でわかんだよ……。」

弾力で指を押し返すようにしながら、ハロルドが不服そうに答える。
それが何だかとても可愛らしくて、ついつい指に込める力を強めてしまう。
ディムロスは私をブラコンだと言うけれど、ハロルドはこんなに可愛いんだから仕方がないと思う。

「だって、君は無許可で研究室に入ろうとする輩には、いっつも怒鳴るじゃないか。」

鬱陶しそうに私の指を払いのけるハロルド。
それすらも、私にとっては可愛くて仕方がないのに……何でディムロスは分からないんだろう。

「ハロルド、君がディムロスに対して怒鳴るなんて……まあ、久しぶりだものね。」
「…………。」

ハロルドは黙って答えない。
それどころか、こちらから視線を逸らしてしまった。
ああ、可愛いなあ。

「いいじゃないか、偶には。学生時代の気分が味わえてさ。」
「そんないいもんじゃねーよ……。」
「何でだい? あの頃はディムロスの顔を見るだけで怒鳴り散らしてたじゃないか。」

ますます不機嫌そうな顔になるハロルド。
何でこんなに可愛いんだろう。
私の弟は、本当にどんな顔をしていても可愛い。

「まあ、ディムロスのフォローはしておいてあげるからさ。」

私と同じ、赤い髪をぽんぽんと撫でる。

「……頼む。」

流石に、ちょっかいを出すのもこの辺りが潮時だろう。
こういう事は引き際を見極めないと、こちらが被害を被る羽目になる。
ホッとしたような溜め息を零すハロルドを置いて、私はディムロスの部屋に戻る事にした。





「ディムロス、珈琲淹れてきたよ。」
「あ、ああ……すまない。」

ぼーっとしていたらしいディムロスは、私がこれだけ長い間部屋を抜けていた事にも気付かなかったらしい。
幾ら職務中でないとはいえ、彼にしては珍しい。

「…………苦くないか、これ。」
「あれ、やっぱり?」

珈琲が冷めている事にまで頭が回らないだなんて、本当に彼らしくない。

「ところでさ、ハロルドの白衣って凄く大きいんだよね。」
「……そうだな。」

それがどうしたと言わんばかりの視線を投げて来るディムロスに、小さく笑って呟く。

「支給されたサイズじゃ、どうやらハロルドの体格に合う白衣がなかったみたいなんだよね。」
「そうか。」
「で、女物ならピッタリのサイズがあるのに服の合わせが違うから嫌だって、無理やり男物着てるんだよ。」

くすくすと、思わず笑いが零れた。
ディムロスは、まだ分からない様子で話の続きを待っている。

「で、袖を三つ折にしてるんだけどね。裾はそうもいかなくてさ。」
「まあ、そうだろうな……。」
「裾が床に着くと、薬品がつくからって自分で裁断して縫ったんだよ。あれ。」

ああ見えて、案外あの弟は几帳面なのだ。
例えば言葉なんかも語源通りにキッチリと使われなければ納得がいかないというやっかいな性質で、ただ彼が間違った使い方をする人間に忠告をしないのは自分も全ての言葉の語源を知っている訳ではない、というだけの事だった。
何も言わず、ハロルドが静かに苛立っているのが私にはいつもよく分かった。
これが分かるのは……双子だからかも知れない。

「だから、ハロルドの部下なんかも絶対みんな一度は怒られてるんだよね。」
「…………。」
「だから、さ。別に、気にしなくていいんだよ。」

途中で気付いたらしいディムロスは、俯いて黙り込んでしまった。
それは落ち込んでいる、というよりは何かを考えているようだった。

「昔、ハロルドに言われた事を思い出していたんだ……。」
「そっか。」
「私は人の事を考えないと、何も分かってなどいないという言葉が思い出されて仕方がなかった。」

ディムロスが零す溜め息に、小さく苦笑を返す。

「あの子が今もそう考えていると?」
「そうは思っていないが……。」

言葉を濁すディムロスに、視線だけで続きを促した。

「ただ、今になって、その言葉が真実だったと思ったんだ。」
「ふーん……。」

ディムロスの手から冷えた珈琲を奪って、一口だけ口をつけた。
想像していたよりもよっぽど苦い。
眉間を顰めながらそれをディムロスの手に返して、小さく呟いた。

「まあ、ディムロスは人の気持ちなんて全然考えないし、他人の事なんて何も分かってないけどさ。」
「…………ああ。」
「でも、そこが君のいい所だからなあ。」

ディムロスが目を見開く。

「…………え。」

その青い髪をぽんぽんと撫でながら微笑む。

「聞こえなかった? そこが君のいい所だって言ったんだよ、ディムロス。」
「待て、おかしくないか……? それの何処がいい所なんだ?」
「何言ってるんだい。長所は時に短所になるし、短所は時として長所になり得るんだよ。」

ディムロスは呆れたような顔をして溜め息を吐いた。

「意味が分からん……。」
「まあ、だからそこがいい所なんだって。」

ディムロスの手から冷えた珈琲を取り上げる。

「君、カフェイン摂りすぎたらどうせ寝れなくなるだろう?」
「そ、そんな事は……。」

それが図星だという事は疾うに知っている。

「おやすみ、もう寝なよ。」

そう言って、ディムロスに背を向けて扉に向かう。

「…………ああ、おやすみ。」

後ろから小さな声が聞こえた。
これで、もう大丈夫だろう。

「おやすみ。」










ハロルドが案外几帳面だという事を書こうとしたら、カーレルさんが結構危うい人だというのがメインテーマになってしまった気がする……^▽^;
カーレルさんは多少、変人が入ってると個人的にツボです^^^

あと、拙宅のカーレルさんは、ハロルドに関しては視界にフィルター掛かってます^^^^^
多分、末期です^▽^

ちなみに、お湯に珈琲豆を浮かべたのは父の同僚です^^^