まずい。
まずい。
これは相当にまずい。
「今日は子供たちを早く寝かしつけてしまおう。」
今日の天気は相当にまずい。
「カーレル、ハロルド、もう寝る時間ですよ。」
子供たちを早々に布団に向かわせようと、そう告げる。
「まだ早いと思うけどなあ。」
ハロルドが時計を見ながら呟く。
この年でもう時計の見方が分かるとは感心なものだと思いながら、ハロルドの頭をそっと撫でて囁いた。
「今日は夜から雷が鳴るらしいので、その前に寝てしまいましょう。」
「雷?」
「そうだよハロルド、予報で言ってたよ。」
毎朝予報をチェックしているカーレルが、ハロルドに告げる。
「へえ、そうなんだ。」
兄にそう諭されて、妙に納得したらしいハロルドが窓の傍まで駆け寄った。
外はどんよりと薄曇りで、今にも雪がちらつきそうな天候である。
「雪颪って言って、冬になる前に雷が鳴りやすくなるんだって。」
「ふうん、雷って夏の積乱雲が出てるときに鳴るものだって思ってた。」
はてさて、妙に賢い子供たちである。
「本にはそう書いてたんだけどなあ。」
不服そうに、幼い掌でその赤い髪をかきながらハロルドが呟く。
「例外もあるという事ですよ、ハロルド。さあ、寝ましょう。」
布団を捲って、ぽんぽんと入るように示す。
しかしハロルドはぷるぷると首を振って、窓枠に確りとへばりついた。
「オレ、雷見たい。」
……何という事だろう。
どうしてあんなものを見たいだなんて思えるのだろう。
子供というものは全く以って分からない。
「は、ハロルド……雷が鳴るのは遅い時間ですよ……?」
そう言って何とか忠告するも、ハロルドは首を横に振った。
「いいよ、オレ起きてる。」
この発言には参ってしまう。
私は、雷が鳴り出す前に、全ての仕事を終わらせて布団に入らねばならないというのに……!
「ハロルド、明日起きられなくなりますよ……?」
「ちゃんと起きる!」
「背も伸びなくなりますし……。」
「1日くらいで変わんないよ。」
「あと……。」
あと、何と言えばいいだろう。
何と言えばハロルドを止められるのだろう。
好奇心旺盛なハロルドの興味というスイッチが入った以上、私に止める術はなかった。
「…………ハロルド、寝た方がいいんじゃないかな。」
見かねたカーレルが横から助けに入ってくれた。
情けない事この上ないが、ハロルドを止める術を持ち得ない私には八歳児に頼る他なかった。
「やだよ! オレ、雷見たいもん!」
しかし、ハロルドはあっさりとそう言い切った。
こちらを向いて苦笑するカーレル。
完全にお手上げ、という事なのだろう。
「ごめんなさい、イクティノス。」
「いいえ、貴方が悪いわけじゃないですよ。」
申し訳なさそうにこちらへとよってくるカーレルを抱き上げる。
「貴方だけでも先に寝ましょう。」
「ううん、私はハロルドを待つよ。」
布団へと運ぼうとした私を引き止めて、カーレルはその腕から降りた。
「だから、イクティノスは仕事してきていいよ。」
「…………いいえ。大丈夫ですよ、カーレル。」
カーレルに気を遣わせてしまった事を申し訳なく思いながら、その赤い頭をそっと撫でた。
子供たちに、私のみっともない一面を見せたくない思いで無理やりに寝かしつけようとしたが、それは間違いだ。
子供たちの興味を削ぐ様な行為はするべきではない。
「私も一緒に待ちますから。」
例え、雷にみっともなく騒ぎ立てて、それを子供たちに見られる羽目になろうと、子供たちの興味を削ぐよりは遥かにマシな事だ。
予報によると、後およそ一時間。
それまでに心の準備を整えて、せめて叫ぶような事がないようにしようと思った。
四十分後。
決着は思ったより早く訪れた。
「…………ハロルド?」
窓枠に手をしがみつかせたまま、ハロルドは夢の世界へと疾うに旅立っていた。
苦笑を零しながら、その小さな掌を窓枠から外してやる。
起こさないようにそっとその体を布団に横たえる。
「ハロルド、寝ちゃいましたね。」
そう言って笑いかけると、カーレルも困ったように笑った。
「さあ、カーレルも寝ましょうか。」
「はい。」
カーレルが布団に潜り込んだのを確認して、部屋の電気を消した。
「おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
返事は一つだけ。
もう一つは健やかな寝息を立てている。
私は静かに扉を閉じて、リトラー中将の所へ急いで書類を届けに向かった。
「リトラー中将。」
凛とした声が室内に響く。
「君か、入りたまえ。」
声で来客を判断して招き入れる。
声の主は扉を開けると、律儀に敬礼をして室内へと足を踏み入れた。
「書類をお持ち致しました。」
「ご苦労だったね、ところで……。」
職務時間が疾うに終わっている事を確認してから、イクティノスに尋ねる。
職務時間中に余計な会話を差し挟むとイクティノスが不機嫌そうにするからだ。
「子供たちはもう寝たかい?」
「ええ、何とか寝てくれましたよ。」
「何とか、とは?」
イクティノスが少し口篭る。
何か言い難い事でもあるのだろうか。
「……ハロルドが、雷を見るまで起きていると言い出しまして。」
「ああ、なるほどね。」
そう言えば、今日は夜から雷の予報が出ていたなと思い出す。
好奇心の塊のようなハロルドの事だ、そう言い出すのも頷ける。
「暫くは窓にしがみついていたのですが、途中で疲れて寝てしまったようです。」
「そうか。」
その様子を想像して、思わず苦笑が漏れた。
きっと可愛らしかった事だろう。
「ところで、書類の話に戻ってもよろしいでしょうか?」
まるでどこぞの夫婦のような会話を打ち切るようにして、イクティノスが告げる。
普段ならイクティノスもあの子たちの話題にのってくるのに、何だか今日は妙に急いでいるなと思いながら頷いた。
「……については、データでという事でしたのでこちらのディスクを。」
そう言ってディスクを差し出すイクティノス。
説明の言葉がいつもよりも雑で、やたらと早口だ。
本当にどうしたというのだろう。
「それから……。」
イクティノスが続けようとした瞬間、室内に稲光が瞬いた。
「おや、雷だね……。」
続いて、電光の爆ぜる音が辺りに響き渡る。
「ひっ……!」
ばさばさと書類が辺りに散乱する。
「…………イクティノス?」
まさかとは思うが、今の声は彼のものだろうか。
あの、イクティノスに限ってそんな、まさか、とは思うのだが、見遣ったイクティノスの表情は恐怖に引き攣っている。
「こ、こここここ、これで、私は失礼します……。」
明らかに様子がおかしい。
もしや……。
「雷が、怖いのかね……?」
室内の空気がシンと静まり返ったような気がした。
「ま、まさか、そんな訳が……。」
その瞬間、再び稲光が瞬いた。
「うわぁあっ!」
イクティノスが耳を塞いでその場に蹲る。
ガラガラという音が消え去った所で、イクティノスは身震いをしながらそっとその手を離した。
「り、リトラーちゅうじょ……。」
その瞳の淵には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。
どうしたものかと思いながら、イクティノスの腕を引いて、部屋に備え付けの簡易ベッドの上にそっと座らせた。
書類の件は後回しだ。
「ほら、こうすれば怖くないだろう。」
そう言って、彼の両の耳を力いっぱいに塞いでやると、イクティノスは小さく頷いた。
それからの彼は大変だった。
何せ、稲光が部屋に瞬く度に悲鳴を上げるのだ。
「うわぁあああっ、いやだ!! 中将っ、手、離さないでくださいっ!!!」
「……離していないだろう?」
「うわぁああっ!」
「イクティノス…………。」
結局、彼が落ち着いたのは雷が鳴りを潜めた夜半過ぎの事だった。
「……イクティノス?」
涙を目尻に溜めたまま、彼は私の腕の中で密やかな寝息を立てていた。
「参ったな……。」
今日中に済ませなければいけない書類について、イクティノスに説明を受けている途中だったというのに。
しかし、イクティノスをそのまま此処に放ったらかす訳にもいかないし、かと言って漸く眠ったのに起こすのも忍びない。
「仕方ないな。」
今日中、というのはとどのつまり明日の朝までという事だ。
そう考えて、イクティノスを抱え込んだまま、堅い簡易ベッドにそのまま身を投げ出した。
目蓋を光が通過するような、そんな眩しさに苛まれてぼんやりと意識が浮上した。
ゆっくりと目を開くと、見覚えのない天井が視界に映り込んだ。
はて、自分は一体何処にいるのだろうと思いながら、口の端に垂れていた涎を拭おうと腕を上げた…………つもりだった。
何故だろう、腕が上がらない。
どうやら何かが上に乗っているようだ。
とにかく状況が把握できないのも困ったものだと、周囲を見回すように首を傾ける。
「え。」
……と、そこには緑の髪を湛えた上司の寝顔があった。
「リ、トラー……中将?」
一瞬、何が起こったのかさっぱり分からなかった。
次の瞬間、嫌な想像が頭の中を駆け巡って、慌てて自分の格好を見遣る。
「よ、良かった……。」
服は着ている。
つまり、何もなかった。
そう考えてから、そんな事があって堪るかと思い直す。
幾ら、何でも。
…………それはあんまりだ。
そう、自分には故郷に婚約者がいるのだ。
そんな事が起こって堪るものか。
「中将、起きてください。中将。」
「う、うん……。」
その体を揺すると、リトラー中将は眉根を寄せながらぼんやりと目を覚ました。
「……おはよう、イクティノス。」
「おはようございます、起きてください。」
「うん、起きるのはいいんだけれどね……。」
体の上の重みがフッと消えた。
どうやらリトラー中将の腕が乗っていたらしい。
「君も退いて貰えるかな?」
言われて、よくよく考える。
自分が何処に寝転がっているのかを。
「し、失礼しまし……っ!」
慌てて飛びのいた際に、見事に後頭部をぶつけてしまった。
唐突に振って湧いた痛みに呻く。
全く、こんなのは私らしくない。
「……大丈夫かな?」
「は、はい……問題ありません……。」
心配そうに覗き込むリトラー中将にそう答えて、昨晩散らかしたままの書類を集める。
「そうそう、説明がまだ途中だったね。」
「ええ、申し訳ありません。」
昨夜の失態を思い返してしまうと恥ずかしくなるのだが、今はそんな事を言っている場合ではなかった。
一刻も早く書類を仕上げなければ。
「では、こことここの欄についてですが……。」
「ああ…………。」
答えるリトラー中将の表情が見る見る引き攣っていく。
「中将、どうかなさいましたか?」
尋ねると、気まずそうな顔で視線を逸らしてリトラー中将は呟いた。
「腕が、痺れて……動かないんだ。」
「え…………。」
それは、もしかして。
いや、もしかしなくとも……。
「う、腕枕の……所為ですか?」
「…………多分ね。」
途端、羞恥に顔が染まる。
自分が何も考えずに寝転がっていた所。
そう、リトラー中将の右腕の上。
「す、すみません……!」
「いや、考えなしだった私が悪いんだよ。」
そう言って、リトラー中将は空いている左手で私の頭を撫でた。
「それで君に書類の始末を手伝って貰えるなら、私としては好都合だ。」
「…………はい!」
気を遣ってくれたのだろう。
その発言に更に自分を情けなく思いつつ、私の所為で中将の不始末にならないようにと私は力を込めて返事を返した。
その後、二人で慌てて書類を仕上げた事だとか。
ハロルドが雷を見れなかった事で不貞腐れた事だとか。
雷の予報が出る度に私がリトラー中将の部屋を訪れるようになった事だとか。
そういった事はまた別の話。
二十歳のイクティノスかわいいと思います!^▽^
結局リトイク書いてしまった……;
個人的には小さいベルセリオス兄弟も書けて満足でした!^^