「イクティノスを知らないか?」
空調の効きすぎで暑いのだろうか、そう呟く彼はその蒼髪を頂点で長いポニーテールにしていた。
ああ、若しかしたら執務の邪魔になるからかもしれない。
地上軍の中将としてはちょっとどうなのかと思う髪形だと言えなくもない。
だが、どちらにせよ、執務時間外の彼はそんな事を一々気にする性格でもなかった。
「雷雨だから、総司令殿の所にいるんじゃないかな。」
そんな事をぼんやり考えながら、そう呟く。
「雷雨だから?」
「雷雨だから。」
怪訝そうにその言葉を繰り返すディムロスに、確定的に言い直す。
それでも相変わらず意味が分からないのだろう。
ディムロスは首を傾げながら持て余した書類へ視線を遣った。
蒼が肩口でさらりと揺れた。
「とにかく、雷雨の日の少将は総司令殿の所にいるんだ。」
「そうなのか。」
苛々とした心の内を表情に出さないように努めつつ、会話を打ち切った。
ディムロスはやはり分からないままに、そういうものなのだと納得したらしい。
笑顔を浮かべたまま、思考を巡らせる。
幸い、人を利用して物事を思うように運ぶのは、私の得意な分野である。
「仕方ない。暇だから、呼んできてあげるよ。」
「……む、そうか。では、すまないが頼む。」
中将が暇などと、在りえていい話ではないがそこはそれである。
ディムロスにしても、どうしても今日中に片してしまいたい書類なのだろう。
わざわざ人を遣い走りに出してまで彼が書類を片付けようとする事はあまりない。
総司令殿の所へ赴くのに気兼ねしているというのも少なからずあるだろうが。
「じゃあ、行ってくるよ。」
そのままひらりと手を振って、ディムロスの執務室を出た。
司令室の扉は厚い。
部外秘の情報が取り交わされる部屋なのだから、当たり前の事だが。
コンコンと硬質なノックをして、名乗りをあげる。
「カーレルです。」
外の音はスピーカー越しで、室内に通っている。
返答を待って、暫く扉の外で立ち尽くした。
「ああ、取り敢えず入りたまえ。急いで。」
内線で通じたスピーカーから、司令が困ったような声でそう言った。
「失礼致します。」
私は儀礼的な挨拶を述べて扉を開け、体をその中に滑り込ませた。
執務室には、予想していた通り誰もいなかった。
その奥の、部屋続きになっている所へとゆっくり足を進めた。
「ししし司令っ……て、手っ、は、離さないで下さい……って、うああああっ!」
窓から見える稲光と、続く雷鳴。
そして、イクティノスの悲鳴が聞こえた。
「お取り込み中、誠に申し訳ありませんが……。」
呆れたような声音で呟く。
ベッドに腰掛けた司令の膝の上に座り、その肩にしがみつくイクティノス。
経緯を知らなければ、一見睦まじい恋人のようにさえ見える。
それに、更に苛立ちが募った。
「か、カーレル……!」
イクティノスは私の姿を見遣ると、辛うじて凭せ掛けていた体を起こした。
これは本人の矜持によるものだろう。
それでもその体は雷への恐怖で震えていたのだが。
「ディムロス中将が書類の件で、少将にお話があるそうなのですが。」
「明日では駄目なのかね?」
さも当然のように司令がイクティノスを庇う。
それにさえ苛立つ。
当たり前のような顔をして、そんな事をしないで欲しい。
いや、違う、この方は誰に対しても平等にこうなのだから。
相反する思考が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
「なるべく今日中に仕上げたい様子でしたので、少将に伺おうかと……。」
あくまでイクティノスの意見を求めているのだと、気付かれない程度に言外に含ませる。
上手く誘導すれば、筋書き通りに事が運ぶ筈だ。
「……行きましょう。」
少し危なげな足取りで、イクティノスが立ち上がった。
仕事という事になればイクティノスが断る筈はないだろうという読みは当たっていたようだ。
外れるという事もないだろうとは思っていたが。
「大丈夫かね?」
「ええ、平気です。」
気遣わしげな視線で、司令が尋ねる。
イクティノスはそれに弱弱しくもにこりと微笑んだ。
苛々する。
ああ、そんな表情、私には向けやしない癖に。
そのまま司令室からイクティノスを連れ出して、長い長いラディスロウの廊下を共に歩いた。
二人分の靴底が立てる音がリノリウムに反響する。
ゴロゴロと、時々黒雲が唸り声をあげる度にイクティノスの肩が小さく跳ね上がる。
それでもそれを態度には出さないようにしながら、イクティノスは必死で鉄面皮を保っているようだった。
「少将、本当に大丈夫ですか。」
「何がです?」
カツカツと踵を鳴らしながら先を行くイクティノスに声をかける。
イクティノスは少し苛立ちを含んだ声でそう返した。
いや、焦りかもしれない。
一分一秒でも早く仕事を終わらせてしまいたいのだろう。
そして、司令の元へと戻りたいのだろう。
ああ、本当に苛々する。
司令に縋ろうとするそれが、雷からくる恐怖によるものだとしても。
「カーレル……?」
私より少し前にある背中を、後ろから抱きしめた。
イクティノスは困惑しているようだった。
「私だって、貴方を抱きしめて耳を塞ぐことくらいできますよ……。」
幼い頃から追いかけていた背中は、もう私のものより一回りも小さかった。
あの頃に比べれば背も伸びた、腕力もついた。
腕の中に閉じ込める事くらい容易い。
「どうしたんです、カーレル?」
常とは違う私の様子に、あの冷静なイクティノスも少なからず戸惑ったようだ。
本当はこんな事をするつもりではなかったのに。
「少将、何故ですか……何故、私では駄目なんですか……。」
ただ、司令の元からイクティノスを連れ出す事さえできればそれで良かった。
ディムロスの書類なんて、本当は体のいい口実だった。
それで彼の仕事が捗るなら言う事はない。
稲光が瞬く。
イクティノスの肩が震えて、雷鳴が轟いた。
「ひっ……!」
こんなに近い距離にありながら、それでもイクティノスは私に縋ろうとはしなかった。
恐らくは保護者としての矜持だろうか、少なくともそれが自尊心からくるものであれば司令に縋ったりはしないだろう。
「何故……。」
許しを請う事もせずに、その唇を奪った。
下唇を食むようにしながら、何度か角度を変えて口付ける。
息が上がって、くらくらと眩暈がした。
そっと唇を離すと、呼吸が乱れていた。
全く情けないことだ。
相手は平然としているのに、仕掛けた私が息を乱すだなんて。
思わず赤面してしまう。
「……カーレル。」
イクティノスがそんな私の頬を撫でて名前を呼んだ。
「イクティノス……。」
その肩にぎゅうと縋りついた。
自分でも全く知らぬ間に、私はみっともなく泣いていた。
「どうしたんです、寂しかったんですか……?」
子供の癇癪だとでも思われたのだろう。
しかし、二十三にもなっておきながら泣いて親に縋る私は、確かにみっともない子供だった。
「傍にいて、ください。お願いですから……。」
私以外の誰かの傍らになんて、いかないで。
酷く幼い嫉妬だ。
「カーレル。」
ぼろぼろと涙を零してその肩口を濡らす私の名前を、イクティノスは優しげな声音で呼んだ。
そして柔らかく私の髪を梳いて笑う。
「いいでしょう。但し、仕事を終えてからですけどね。」
何にもまして仕事を優先する職業軍人な彼が、あんまりにも、らしすぎて。
私は思わず笑ってしまっていた。
「雪ときどき雷その後」のその後の話^^^^^
泣いた子供を笑わせる術を確り心得ているイクティノス^▽^
ハロルドが8年、カーレルが17年の片思い……
拙宅のベルセリオス兄弟は恋愛下手ですね……^q^
いつもスマートなイメージが強いカーレルの、子供っぽい表情を書いてみたかったんです^▽^
で、この後、一際大きな雷が鳴ってイクティノスが「くぁwせdrftgyふじこlp」ですねwwwww