ざぁざぁと海が鳴る。

塩分を含んだ生ぬるい風が頬に吹き付けて、肌がぴりぴりした。
ああ、でも日に焼けた所為もあるのかもしれない。

とにかく、この三十分でオレは海辺が嫌いだという事だけがよく分かった。

「……遅い。」

僅かな木陰に腰を下ろして、オレは待ち人が現れるのを待っていた。
かれこれ三十分も。

……ひょっとして、忘れているのではなかろうか。

そこまで馬鹿な女だとは思っていないが、わざとすっぽかすくらいの事はしでかしそうだ。
そして、オレが一体何分待っているかをにやにやしながら眺めるくらいはやってのける。
そういう女だ。

「ごめんなさいね。」

そう思った瞬間、サクサクと粒子の細かい砂の粒を踏みしめる音がして、よく通る高い声が響いた。
潮騒と風によく掻き消されなかったものだと思いながら、オレはその声のした方向を振り向いた。

「ちょっと、仕事が長引いちゃって。」

白いパラソルの下で薄ら笑いを浮かべる白衣の女が高いヒールで砂を踏みしめて立っていた。
その長いラベンダー色の髪を潮風が攫う。
女は乱雑な手付きでそれを掻き上げて、こちらへ近づいてきた。

「遅れるなら連絡くらいしろよ。」
「連絡してる間に着くわよ。」

そう言って、女は背後に聳える白い建物を振り返る。
彼女の勤める病院だ。

「まあ、そりゃそうだ。」

海の側に聳えるその病院で、彼女は医師として働いている。

「で、用事って何。」
「あら、会ってすぐに用件を聞いてたんじゃモテないわよ。」
「なるほど、その方が都合がいい。」

ふかしていた煙草を携帯灰皿に押し付けて、ゆっくりと立ち上がる。
彼女はつまらなそうに眉を顰めてその様子をじっと見遣っていた。

「で?」

オレがもう一度尋ねると、彼女は小さく溜め息を吐いてこう答えた。

「何となく、って言ったらどうする?」

ラベンダーが揺れた。

「は。」

オレは眉間を寄せて彼女を見遣る。
彼女は面白そうに笑うと、じっくりと観察するような目つきでこちらを見遣った。

「何となくね、会いたくなったの。なんて。」

にやにやした笑いを浮かべてそう言う彼女に鼻で笑って見せた。

「お前がそんなに可愛げのある女か?」
「ないかしら?」

病院ではね、モテるのよ。これでも。
なんて、平然と言ってのける。

おいおい、何がしたいんだよ。

「見てくれだけはいいからな。」
「ありがと。」

厭味交じりにそう言うと、彼女はにこりとわざとらしく笑った。
ああ、そういう所は相変わらず。

「だって、もう何年会ってないかしら。」

聞くな。
そんなめんどうくさい、女みたいな事。

「まあ、どうでもいいのよ。そんな事は。」

ホント、何なんだ。お前は。
溜め息を零しかけた時、彼女はポツリと呟いた。

「持つべきものは、薬理に通じた友人ってね。」
「あっ、そう……。」

言うと思った。
彼女がいつも通りの彼女である事にホッとしながら、オレは足元に置いていた鞄をひったくる。

「これだろ、欲しかったの。」
「流石ハロルド。」

中から取り出した数枚の紙切れを掲げて見せると、彼女は獲物を狙う獣のような眼差しで笑った。
ああ、この女はこうでなくては。

「患者の治療の為にどうしてもそれが欲しいのよ。」

ほんの数枚の紙切れ。
新しく開発された薬に関する手続きの書類。

「で、何くれんの?」

相応の対価はあるのか。
そう尋ねてみると、彼女はぐるりと周囲を見渡した。

「そうねえ……。」

そして、少し海辺の方へ向かって足を進める。

「アトワイト?」

何をしようとしているのか。
怪訝に思って、書類を鞄にしまうと彼女の後を追った。

彼女は白いハイヒールを脱ぎ捨てると、波打ち際へそっと足を踏み出した。
白衣の裾が濡れるのも構わず歩いていく。

「これなんて、どうかしら。」

そして、水底から手のひらほどの大きさの巻貝を拾い上げる。

「貝?」
「そう、でもただの貝じゃないわ。」

そう言って、拾い上げたそれをそっと耳に宛がう。
まだ海水の滴るそれを何の遠慮もなしに耳元へと持っていく彼女の行動には呆れかえる。

「波の音が聞こえる魔法の貝殻よ。」

そうして、聞こえてくる音に耳を澄ませている。

「反響音だろ。くだらない。」
「そうかしら?」

彼女はそう言って白衣の裾で貝殻を拭うと、それをこちらに差し出した。
聞けという事らしい。

「馬鹿馬鹿しい。」

そう言いながらも、オレは渋々それを耳へと宛がった。
衣擦れのような、水の中で聞こえる音のような、小さな音が響く。

波と風の音が巻貝の中で反響する。

「違うわ、これは特別。」

つまらなそうな顔を浮かべるオレに、彼女は強かに笑ってみせる。
巻貝を掴むオレの手のひらに、そっと手のひらを重ねる。

「私が魔法をかけたの。」

妖艶な笑み。

「……ハッ、くだらねえ。」

御伽噺かよ。

「ふふ、でも貴方こういうくだらないの好きでしょう?」

その言葉に、チラリと鞄を見遣る。
その中に押し込まれた、数枚の紙切れ。

誰かにとっては命を繋ぐもの。
でも、オレにとってはただの紙切れ。

価値なんてないに等しい。

「いいぜ、くれてやるよ。」

巻貝と代替で丁度いいくらいだ。

「ありがと。」

彼女はにこりと笑うと濡れた手のひらをやはり白衣で拭って、オレの鞄から紙切れをひったくった。

「おまけにキスもつけましょうか。」
「いらね。」

オレがそう吐き捨てると、彼女はくすくすと笑って白いハイヒールを拾い上げ「またね。」と言った。

その"また"は恐らく数年後なんだろうなとぼんやり考えつつ、オレはポケットから煙草を取り出した。
海風にライターの火が掻き消されないように口元を覆って、煙草に火を点ける。

ゆっくりと吸い込むと、煙草の先から紫煙が立ち上った。

「やっぱり、女だったんだな。あいつも。」

面倒くさい事この上ない。

そう思いながら、オレは巻貝を海に向かって放り投げた。









アンケ20個目でハロ♂アトです!

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