無駄にありあまった敷地面積だけが唯一の誇りと言っても過言ではない、少し郊外に寄った位置に建てられたこの大学。
その敷地の端にある、古い部室棟へと、今、私は足を踏み入れていた。
木造モルタルのここは、それぞれの学部の本館からも近い新部室棟の影に追いやられる形になっており、人の通りそのものが少ない。

私は古びて微かにその身を軋ませる階段をゆっくりと上り、この部室棟で唯一、部屋としての機能を残した空間への扉を叩く。
人が住まない建物は朽ちてゆく、その中で辛うじて息をしているこの部屋も老朽化に伴い悲鳴を上げている。
押し開けた蝶番の軋みだと分かっていても、そのように聞こえたのは単に私の心持ちだけの問題だろうか。
いや、本当にそろそろ潮時を迎えるのかもしれない。

「やあ。」

室内には、先客がいた。
少し張り出た窓辺の縁に腰掛けて、硝子窓の外を覗いていたらしい。

「いるのなら、返事くらいしてくださいよ。」
「ああ、それはすまない。」

扉を叩いても静かだった室内に、きっと人はいないだろうと想定していたから少し驚いた。
いや、この時間ならばどうせ誰もいないだろうと半ば確信していたからだろうか。
根拠のない確信は止めておいた方がいい。
なるほど、教訓だ。

「こんな時間に人がいるとは思ってませんでしたからね。」

本当は、人のいない内にそっと提出してしまおうと思っていたのに。
小脇に抱えたプラスティックのフォルダから一枚の紙を取り出して、長机の上にそっと滑らせた。

「おや、嬉しいね。とうとう入部してくれる気になったのか。」

外を覗いていた温和な視線が、長机の上の一枚の紙に絡め取られる。
窓から差し込む逆光で少し翳った、深い翠の瞳。

「ええ、半ば活動休止状態の部活ですからね。私には丁度いい。」
「参ったなあ、これでも偶にはまともな活動をしているんだけれどね。」

彼は全く困った様子もなく、私に小さく微笑んでみせた。
そんな彼の表情に、ぐっと下唇を噛み締めそうになるのを、精神力という名の自尊心で堪えて私は静かに目を逸らした。

「先日、ご招待頂いた流星群以来、まともに活動をしているのを見たことがありませんがね。」
「うむ、その通りだから否定はできないな。」

いっそ、呆れが先行するそんな台詞に、返そうとした皮肉が喉に痞えた。
何故だろうか。

「どうかしたのか、イクティノス?」

名を呼ばれて思わず我に返る。
今の間は、そんなにも不自然だっただろうか。

「いいえ、少し、外の光が眩しくて。」
「ああ……。」

らしくない下手な言い訳を口にして、誤魔化した。
それを信じたかどうかは分からないが、それでも彼は私の為に古びたカーテンをひいてくれた。
手垢や埃で薄汚れて、擦り切れそうになっているそれは甲高くレールを鳴らしながら陽光を遮った。

そのまま、彼は外の風景に興味をなくしたのかゆっくりこちらへと歩み寄って、一枚の紙切れを掬い上げた。
私の、天文部への入部届けだ。

「本当は、入るつもりなんてなかったんですけれどね。」
「そうなのか。君が心変わりしてくれてよかったよ。」

本当は、入部するつもりなんてさらさらなかった。
天文には興味を持っていたが、それは個人の趣味で済む話だし、半ば活動休止状態のこんな天文部になど入る意味はなかった。

いや、そもそもこんな辺鄙な場所にある大学になど入るつもりはなかったのだ。

「どうでしょうね。」

きっと、彼は知らない。
高校の頃に、一級上にいた彼に憧れて私がこの大学に来た事などきっと知らない。
彼は私のことなどきっと知らなかっただろうから。

大学に入って、初めて会話を交わす機会があった時……あれは入学のオリエンテーションだっただろうか、何処の高校から来たのかを新入生が尋ねられたことがあった。
そこで出身校の名前を言うやいなや、彼と同じ高校の出身だと周りの上級生が私を彼の傍に押しやったのだ。

初対面の者同士、当然会話など容易に生まれる筈もないのだから、共通の話題を持つものは押し付けろということか。
確かに、それは人の世の摂理だ。
私はその時ほどそれを呪った事はなかったが。

その時、彼は私を見て愛想の良い笑みを浮かべると「奇遇だね。」と言った。
そう、彼は私のことなど知る筈もないのだ。
そのことに酷くホッとしたのを覚えている。

しかし、困ったのはそれから彼と何かと関わりを持つようになってしまったことである。
本当は会話さえするつもりなどなかったというのに、何故か彼の方から構われるようになってしまった。

つい、一ヶ月程前まではなるべく顔を合わせないように逃げ回っていたのを覚えている。
不自然に彼のことを追いかけてしまうくらいなら、いっそ知らないでいようと思ったのに。

今、この天文部に入部しようとしている訳だから、結局はそれも徒労に終わったということなのだけれど。

「よかったのか、どうか。」

私は気付かれないように静かに溜め息を吐いた。
彼に、気付かれないように。

「よかったと思うけれどね?」

私が黙秘を続けてさえいれば、気付かれることはない。
彼は、きっと知らない。









妹の十円玉氏が何やらカウンターの9000を踏んだということなのでリクエストに応えてリトイクです

もう少し微笑ましい話になる予定……でした……